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弁護士法人 白浜法律事務所

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白浜の思いつき
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2019/04/01

予備試験が叩かれることには道理はないように思う

予備試験がさも問題であるかのごとき論調の新聞論説がいくつもでているようである。

しかし、その論拠とするところは、法科大学院があるのに抜け道になっているとか、ペーバー試験で通過しただけであるなどが指摘されているだけのようである。

前者は、法科大学院絶対主義とでも言うべきものであり、そもそも法科大学院が法曹養成機関としての充分な入学選抜や合格後に充実した教育を行うことができているのかという点への検証が欠けているように思う。常識的に考えれば、法科大学院での入学選抜が厳格なものであって、教育も充実しているのであれば、予備試験合格者よりもはるかに高い合格率でもって法科大学院卒業生が司法試験を突破しているということになっているはずだが、実際には、司法試験の合格率は、予備試験合格者の方がはるかに高くなっている。法科大学院の卒業生のために、予備試験の合格率を意図的に低くして難しい試験にしているのではないかと思えるほどである。この結果としての現実からすれば、再検討されるべきは、法科大学院の入学選抜機能と、入学後の教育の実態であろう。

また、ペーバー試験などとの非難は予備試験受験生をあまりに愚弄するいわれのない非難である。実際、予備試験に合格しようとすれば、大学や予備校で相当な勉強をしない限り、合格できないのが実情であるし、法科大学院生ですら、合格できるとは限らないのが実態である。予備試験の受験科目は、短答式では、法律基本科目(憲法・民法・刑法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法・行政法)、一般教養(社会科学・人文科学・自然科学・英語)となっているし、論文式試験でも、法律基本科目(憲法・民法・刑法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法・行政法)、法律実務基礎科目(民事・刑事)、一般教養科目となっている。他方で、司法試験は、短答式は憲法、民法、刑法の3科目で、論文式は公法系科目(憲法及び行政法に関する分野の科目)と民事系科目(民法、商法及び民事訴訟法に関する分野の科目)、刑事系科目(刑法及び刑事訴訟法に関する分野の科目)、選択科目(専門的な法律の分野に関する科目1科目) の4科目となっている。私の率直な感想としては、司法試験よりも予備試験の方が幅広い勉強が必要となっていると思う。

いずれにしても、予備試験を合格した司法試験合格者に具体的に問題があるかというと、司法試験の合格率も高いし、合格後の司法修習を経て、実際に実務家として採用している弁護士事務所や裁判所検察庁からは問題を指摘する声を聞いたことがない。むしろ、実際に就職しているところを比較すれば、採用する側からの評価は、法科大学院卒業生よりも予備試験合格者の方が高いとも言えるだろう。

予備試験を非難するのは、法科大学院の経営にあたって邪魔な存在だからではなかろうか。しかし、そうだとすれば、それは、法科大学院側が自助努力で競争して克服すべきことであって、制度的に予備試験を叩こうとすることが不当なのは明らかであろう。

2019/03/17

法曹養成制度の改革は法科大学院救済ありきで進めてはいけないのでは?

法曹養成制度の改革が待ったなしの状況に置かれていることについては、ほとんどの人が異論のないところであろう。最大の問題点は、法曹志願者の減少である。大学の文系科目の花形のような存在であった法学部の志願者が減少し、東大では文Ⅰが文系最難関ではなくなってしまったというのであるから、法曹志願者の最大の基盤である法学部の優秀な学生の層が減少してきているほど事態は深刻である。法曹の最大の供給源である大学法学部の人気が落ちているということだと、法曹志願者の減少を回復させることはしばらくは見込めないだろうから、法曹志願者の回復は急務となっていると言えよう。

この法曹養成の問題では政府案が新たに示され、京都新聞でも、平成31年3月15日に社説が発表され、この政府案への批判的意見が示されている。しかし、この社説にはいくつか指摘せざるを得ない点がある。

まず指摘せねばならないことは、法科大学院の救済という視点を重視している点は果たしてどうなのかということである。今、最も重視せねばならないところは、法曹志願者の減少に歯止めをかけて、その回復を目指すということであって、法科大学院の救済は、法曹志願者の回復のためにも有効であるということが検証された後で検討されるべきことではなかろうか。また、そもそも法科大学院制度そのものがどうだったのかということを検証しないままに、法科大学院の救済を目指すことが果たしていいことなのかということも冷静に考えるべきことのように思う。

法科大学院は、法曹養成の基幹となるべきものとして期待されて設置されたものが、当初より、司法修習の前記修習の代わりすらできず、いつの間にかそのような役割はそもそもできなかったと開き直りのような発言が堂々と法科大学院関係者から行われ(平成24年4月24日開催の法曹の養成に関するフォーラム第13回会議中の井上正仁発言)、結果的に司法修習では前期修習に近い集合修習を復活させねばならなくなり、実務修習期間の短縮を余儀なくされるに至っている。つまり、法科大学院は、当初より、法曹養成の基幹となるだけの教育を学生に施すことができていなかったとの評価を受けてもおかしくなく、それが故に司法修習制度まで変更を余儀なくされているという事実がまずは議論の前提とされるべきもののように思う。

この点、私は、元々、法科大学院に法曹養成の基幹となるような役割を期待することには無理があったと思っている。そもそも「未修」という、法律の知識も不足し、法律家的思考に適しているかどうかもわからないような学生を受け入れることが求められている上、最終的な法曹資格者を選別する司法試験の合格者数と比してはるかに多い数の学生を受け入れて教育するということになっているために、卒業生の中には法曹にならない人の方がむしろ多いような常態での教育を強いられる構造が法科大学院にはあるからである。つまり、その構造上、法科大学院は、法曹そのものの養成ではなく、法曹となろうとする人への学びの場を提供しているに過ぎないのであって、法曹養成の基幹的役割を期待することは制度的に無理があったと思うのである。井上正仁発言は、まさにこのことを正直に告白した発言ととらえると理解しやすいように思う。

しかも、司法試験の受験資格が法科大学院の卒業ということにされたことで、法曹志願者は、法科大学院を卒業して無職状態で社会に一度放り出された上で、司法試験への合格を個人的努力で目指さなければならないことにされてしまった。大学の場合、現役合格が原則であるが、司法試験の場合、浪人以外の選択はないこととされてしまったわけである。このことで、法科大学院は司法試験予備校よりも無責任な立場とされてしまっているように私には思える。これも、法科大学院が法曹養成の基幹となれていない原因の一つではなかろうか(私は、上記の構造的欠陥を修正すると言う意味でのギャップタームの解消、つまり、在学中の司法試験受験を法科大学院生に認めることは好ましい改革なのであって、決して非難されるようなことではないと考えている。)。

次に、法科大学院を救済すれば、法曹志願者が戻るかということであるが、法科大学院を救済しても志願者が戻ることはないことは明らかである。そもそも志願者が減少した原因は、法曹需要の予測の誤りにあって、法科大学院の卒業生が実際に法曹となる前の段階から、就職難を発生させてしまい、その後は弁護士の就職難ということが社会にも広く知れるようになってしまったということにある。資格を得て仕事に就くための試験が司法試験である以上、至極当然のことである。従って、司法試験の合格者を減らして、就職難や就職後の将来への不安を取り除くことがまずは最優先課題とされるべきである。ところが、このように司法試験合格者数を減らすことは、法科大学院にとって、卒業生の司法試験合格確率が減るということに直結するということで、法科大学院関係者からは、合格者数の減少に対して強い不満が述べられることになる。しかし、これは本末転倒の議論であろう。職業人の養成を行う以上、その職業の将来展望を抜きにして、とりあえず沢山合格させてくれなどと社会に要求するのは無責任な議論のように思う。大学医学部の教育者の中では、自分達の学生を合格させたいから医師試験全体の合格者数を増やしてくれなどと言われていることはないと思うが、法学部だけは別の論理がまかり通るということではなかろう。

前述した京都新聞の社説では、予備試験を非難しているように思えるが、法科大学院の教育実態の検証もされないままに、予備試験を制限して法科大学院を優遇することは、本松転倒の議論のように思える。むしろ、予備試験と法科大学院は対等な競争関係におくべきであろう。法科大学院が学生を呼び戻したいのであれば充実した教育を行って学生から支持されるように努力したらいいのではないか。法科大学院関係者は、その卒業生の経済的負担の軽減に直結する司法修習の給費制復活にすら自らの予算確保のために反対し、司法修習生の負担を強く求めたぐらいであるから、学生が集まらないことで自らの経営問題が生じたとしても自助努力に励んで自力解決することは当然のように思う。むしろ、現状では、予備試験があることで、経済的な負担もなく自ら独学で法律の勉強に励もうとする学生にも法曹となれる機会が広がっているのであるから、予備試験は法曹志願者の減少をくい止めているとさえ言うことができるのであって、この制限は、かえって、法曹志願者の減少につながる危険性が極めて高い。実際、雇う側の弁護士や裁判所検察庁でも、予備試験合格組を多く採用している傾向にあり、法科大学院卒業生でなければ採用しないというようなことにはなっていない。裏返せば、雇う側からすれば、予備試験合格者の評価は高いということであり、法科大学院での教育を受けたかどうかが採用にあたっての有利な要素になることができていないということである。これは、決して軽視されるべきではない。結局のところ、予備試験制限には何らの合理的根拠もないと思う。

また、社説では、法科大学院の予備校化を懸念しているようであるが、予備校がなぜ非難されるべきなのかが、私にはわからない。昔から予備校は存在しているし、むしろ、大学の授業では司法試験にはなかなか合格できないということではなかったと思う。反省が行われるべきは、大学や法科大学院の教育の方ではなかろうか。司法試験の合格に実績を上げている予備校が非難されるいわれはないだろうし、むしろ、法科大学院が予備校よりも学生から支持される教育を行うことができているかということが検証されるべきことではないかと私は思う。

最後に、京都新聞の社説には、弁護士の都市部偏在が法科大学院の設置によってもたらされたかのような記述があることも気になった。この記述が、法科大学院の設置によって、弁護士過疎地域が出現したと理解されているのであればそれは誤解である。弁護士ゼロワン地域の解消は、法科大学院の卒業生が司法試験に合格する前に実現している。法科大学院制度の設置に伴い法曹資格者が激増することにはなったのだが、そのことによってゼロワン地域が復活したというようなことはない。弁護士ゼロ地域であった宮津京丹後地域を抱える京都府では、公設事務所の設置などで全国に先駆けてゼロワン地域の解消を実現したのであるが、そのことが地元の新聞社に理解されていなかったとすれば、少し残念である。

なお、この社説が、最近の弁護士の就職の傾向として、地方の弁護士会への入会者が減っているということを問題としているのであれば、果たしてそれが大きな問題なのかということを指摘しておきたい。人口過疎地域での弁護士会の法律相談が相談枠が満杯となっているような事実はなく(むしろ充足率の低さが問題となっているほどである)、地方での弁護士不足の声はほとんど聞こえてこないからである。

いずれにしても、これまでの法曹養成制度の改革は、大学関係者の声が過度に重視されて、理念に先走る傾向があるように思う。実際に法科大学院で教育を受けた人間である若手の弁護士や、弁護士を雇い入れている弁護士を初めとして、裁判所や検察庁などの現場の声にもっと耳を傾けた地道な改革を目指してほしいと思うのである。

2019/02/17

京都マラソンやってました

本日2月17日は、京都マラソンの日です。

事務所そばの河原町丸太町の交差点は、鴨川を下ってきて丸太町通に右折して走ってきたランナーが河原町丸太町交差点を西に向けて通過し、烏丸丸太町まで走ってUターンして、河原町丸太町で右折し、京都市役所前でまたUターンして、河原町丸太町に戻って右折して、京大方向に走るということで、ランナーが3度通過するめずらしい場所になっています。

ちなみに丸太町通は、こんな感じでランナーがすれ違っています。

河原町丸太町は通行人もおられるのですが、これをどう通過させるかという問題があるようです。何となく列車のすれ違いのように思えるような方式が採用されています。

まず、歩行者は、道路の中間にある柵に集められて、ある程度の人数が集まるまで待たされます。その間、ランナーは、柵の間の中央車線を走ります。ある程度の人数の歩行者が集まると、ランナーの走行車線が変更されて、ランナーは、柵の外側を走ることになります。柵と柵の間を走るランナーがなくなったときに、歩行者は、反対側の柵の中に入ることになります。歩行者が柵に入り終えると、ランナーの走行車線が変更されて、今度は、ランナーは柵の内側を走ることになり、歩行者は、反対側に渡り終えることになります。このとき、渡りたい歩行者は、柵の中に入ることになります。これが繰り返されるということで、ランナーと歩行者がぶつかることなく、歩行者が河原町丸太町交差点を南北に渡るということがてきています。横断には、10分ほどはかかることにはなっているようですが、市民の協力があっての京都マラソンということを実感する場所になっています。

 

これが柵の中で待っている歩行者です。ちょうど、ランナーが歩道側の車線を走るように車線変更されたところになります。

 

ランナーの車線変更が終わると、歩行者が互いの柵に向けて移動します。ランナーは歩道側車線を走っています。この移動が終わると、ランナーは、中央車線を走ることになります。

 

2019/01/04

2019年の年頭のごあいさつ

新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

今年は、平成最後の年になります。元号の利用は、中国から伝来したものですが、今や、日本以外には使っているところはないように思います。コンピューターの処理などの関係で、独特な処理が必要となるため、日本のSEの人には忙しい年になるのかも知れません。我々法律家としては、日付の処理などが少しややこしくなり、昨年末に成立させた和解条項では少し工夫が必要だったりしました。時効の問題など期間が問題となる案件でも、昭和と平成にまたがった年数のチェックなどに慎重にならねばならないこともあったりしたので、3つの元号にまたがった場合などはより慎重に扱う必要がでてくるのかも知れません。

私にとって、今年がどんな年になるかと言いますと、昨年末に我が事務所に新たに加藤弁護士が加わったことがありますので、加藤弁護士を早く一人前に育てるということが、私の重要な仕事となりそうです。

初仕事は、弁護士協同組合の理事長としての京都府中小企業団体中央会の新年賀詞交換会への出席でした。西脇京都府知事のご挨拶で、今年は高齢化社会への対処が問題となると言われていたことに納得するところがありました。国会議員の先生方や府議会議長などにも新年早々にご挨拶する機会ももて、今年1年がんばろうという気持ちになりました。

ところで、今年は、亥年です。毎年その年にちなんだ寺社仏閣にお詣りすようにしていますが、猪で有名な護王神社は、恐ろしい程の混雑でしたので、未だにお詣りができず、鳥居付近で写真撮影するぐらいしかできておりません。先ほど、賀詞交換会の帰りに様子を窺いましたが、4日なのに、まだまだ神社に入りきれないほどの行列ができておりました。護王神社では、狛犬ではなく、猪が脇を固めておられます。和気清麻呂をお祀りされていて、足腰の守護神と言われているそうです。