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弁護士法人 白浜法律事務所

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白浜の思いつき
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2010/04/22

貸与制と修習専念義務

新64期の修習生からは、修習生の生活費は、給費制として給料を支払って保障するのではなく、貸与制として生活資金を貸し与えることにすることが既定路線とされていますが、日弁連はこれに反対する方向で運動を開始しています。
 他方、修習生には、修習専念義務があるとされ、司法修習生に関する規則の第2条では、「司法修習生は、最高裁判所の許可を受けなければ、公務員となり、又は他の職業に就き、若しくは財産上の利益を目的とする業務を行うことができない。」とされています。このため、司法修習生がアルバイトをしていることがわかってしまったときには、罷免理由になるということとなっていました。
 問題は、貸与制が採用された後にも、この修習専念義務が維持されるのかということですが、上記の修習専念義務条項は削除されていないので、貸与制の採用後も修習専念義務は維持されるということになるようです。
 しかし、そうなると、修習生は、貸与された資金、つまり借金でしか生活を維持するしか方法がないことになります。私には、収入を得る方法を制限した中でのこのような一方的義務づけは経済的自由の侵害のように思えます。
 ところが、最高裁は、給費制と専念義務は直結する概念ではないとしているようです。具体的には、以下の2点を指摘しています。「一つは、修習専念義務の中身は何かということである。きちんと授業に出ることや兼職しないことなど一つ一つについて、給費制の場合と、貸与制の場合をそれぞれ検討していく必要があろう。もう一つは、修習専念義務はどこから生じてくるのか、ということである。修習専念義務は、法曹養成においては臨床課程を踏むべきであるということに淵源があり、それをきちんと支えるために、給費制とするのか貸与制とするのか、という関係にあり、給費制から修習専念義務が生じてくるのではない。」と言うのです。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/sihou/kentoukai/yousei/dai21/21gaiyou.html
 しかし、収入の道を閉ざされた修習生が借金漬になり、法曹となったスタートの段階で多額の借金を抱えているという状況は決して好ましいものではありません。そのように考えると、修習生が生活資金を得るためのアルバイトまで禁止するのは行き過ぎた規制のように思います。また、上記の最高裁の考えは、司法修習によって臨床課程を踏むことで技能が与えられることに着目しているように思えます。しかし、現状では、司法修習の終了は、法曹としての就職を保障するものではなくなっています。単なる資格の付与に過ぎないのが実情です。つまり、専念義務によって収入を得ることを制限する見返りが著しく軽いものになってしまっているわけです。かかる観点からしても、現行の合格者数を前提としながら給費制を廃して修習専念義務を維持することは不当なことのように思えてなりません。
 ただ、短期間に制限された修習期間の中で法曹としての知識経験を得ようとした場合には、事実上修習に専念しないと二回試験に合格できるようなレベルに到達することが難しいことも確かです。ですから、養成課程に関わる側が専念義務を維持したいという心情もわからないではありません。
 そう考えると、一番いい解決策は給費制の維持しかないように思います。給費制が維持されるよう、私も、微力ながらも、日弁連の提起する運動に参加してゆこうと思っています。

2010/04/21

新63期の就職状況について思うこと

今年は、東京で大手事務所が採用を抑制しているということを聞きます。このため、新63期の就職状況は、新62期と比較するとかなり厳しいものとなっています。京都の場合、就職先が確保できた人とできていない人の割合が昨年と比べると完全に逆転してしまっているようで、第3クールの中盤であるにも関わらず、就職先が確保できている人が圧倒的に少ないという状況になってしまっているようです。私としては、関係する人が就職できるように精一杯努力しているところですが、私のところに集まる情報も厳しいものが多くて、どうすることもできないというのが現状です。
 そのような中にロースクール関係者からでている合格者3千人堅持などという意見を目にすると、若者の人生をどう思っているのか疑問に思えてなりません。今、私がロースクール関係者にやってほしいと思っていることは、卒業生の進路相談に真剣につきあって一緒に就職先を探すことに尽力することです。資格さえ与えてやればいいということでは困るのです。

2010/04/19

長岡天満宮

せっかく長岡京に事務所を持ったということもありますから、長岡京市のことを少しご紹介しましょう。
 長岡京市は、平安京ができる前に平城京より遷都された都があったところです。この長岡京も、桓武天皇の時代に造営された都です。短命の都でした。この長岡京から名前をいただいた駅がJRの長岡京駅です。昔は、神足(こうたり)という名前でした。ちなみに、長岡京市にある阪急の駅は、長岡天神といいます。この駅は、長岡天満宮に一番近い駅ということですから、駅名も、長岡天満宮にちなんだ名前になったのだろうと思います。
 長岡天満宮は、菅原道真をお祭りしている神社です。道真公が九州に配流されたときに、お供をされた3人の方があり、その中に中小路宗則(むねのり)なる方がおられたのですが、このお別れのときに、道真公が自分の姿を彫った木像を贈られたということで、この木像をご神体として祀ったのが、長岡天満宮の始まりということのようです(出典:「長岡京市の史跡を訪ねて」)。現在の宮司さんも、中小路さんということですから、上記の中小路宗則のご子孫ということになるようです。
 道真公をお祭りしているので、長岡天神は、北野天満宮同様、学問の神様ということです。この長岡天神のそばには、村田製作所など京都のハイテク企業が集まっていますが、これも道真公のお導きかも知れません。我が事務所も、道真公にあやかって、法律に関する研究を怠りなきようにしたいと思っています。
 この長岡天満宮は、梅や桜の名所でもありますが、一番の名物はツツジです。4月24日と25日が献菓祭というお祭りが行われます。この頃が、ツツジの一番の見頃になります。ツツジは、カタカナ英語ではアゼリアということですが、我が事務所につながる大通が、まさにアゼリア通です。これは長岡天満宮と長岡京市役所を結んでいる通です。
 長岡京では、竹の子が特産です。日本一と言われています。この竹の子も今が旬で、長岡天神駅から長岡天満宮に続く道で農家の方が販売されています。
 というようなことで、ツツジを愛でつつも、竹の子もお土産にできるということで、4月24日と25日が長岡天神にお参りされる絶好の日ということになります。この頃に京都に観光に来られるのであれば、ぜひ長岡京まで足を伸ばされることをご検討ください。

2010/04/12

うなぎの寝床に関する考察2

私のブログは、長くて、くどいし、みにくいという批評があるようです。ただ、コアな読者はおられるようで、その方から、うなぎの寝床に関する資料をいただきました。
 その資料によりますと、1571年頃には、京都に「地口銭」なる税金があったということが書かれている古文書(稲荷地口銭関係文書)があるそうです。この「地口税」は鎌倉時代頃にはあったということなので、室町時代より前から「うなぎの寝床」が形成されていたのではないかということでした。私も、税金原因説に立っているのですが、税金だけでうなぎの寝床が形成されたのではなく、商売をするには人通りの多い道路に接したところをどれだけ確保できるかということが問題となるため、商売に関係のない住居の機能などが奥にある細長い建物群が形成されたということもあるのだろうと思っています。
 「うなぎの寝床」が課税に関係して発生したのではないと主張されている方は、どうも京町家の保存運動に関わっている方のようですし、他の都市にもあるということを強調されていることからすると、「うなぎの寝床」を隣接地と隙間がないほどに密集した建物の連なりのように理解されているように思います。しかし、「うなぎの寝床」は、短冊形の細長い土地上に建物が建っている状態を示すものですから、その形成は、家屋の形状よりも、宅地がどのようにして短冊状になっていったのかという観点から理解される必要があるように思います。この観点から言うと、税金主因説が正しいように、私には思えます。
 いずれにしても、うなぎの寝床は、建物の建築技術上、広い床の建物を建築することが難しく、ほぼ平家建の木造建築物が主流だった時代に形成されたものだと思います。そのような時代には、人通りの多い道路に接した場所が商売の主戦場だったので、うなぎの寝床上の土地に隣地と接して建築された京町家は合理的な建物だったのではないかと思っています(あくまでも経済合理性というだけで、安全性の点では合理的だったと思っているわけではありませんが。)。
 ところが、建築技術が進歩し、高層建物が出現し、広い床の建物が建築できるようになると、百貨店やスーパーマーケットのような建築物の方が商売には適しているということになりました。昔の人通りを店の中に出現させることができる上、顧客は店の中をあちこちを歩き回ってショッピングができるわけですから、通に面していくつも店があるような商店街よりも大規模店舗の方が集客力としては圧倒的に有利なわけです。アーケードがあるような通に小さなテナントが連なった商店街が、大規模店舗との競争で厳しい状況に置かれることになったのは、全国的な傾向になっていると思いますが、私の理解では、その原因は建築技術の進歩による大規模集合テナント用の建物の出現が主な原因ということになるように思います。そして、この傾向は、車社会の到来とともに、都市部だけでなく農村部でも顕著な現象となりつつあるようです。鹿児島でも大型ショッピングセンターが盛況ということを聞いたことがあります。私の田舎も、商店街はすたれてしまい、車で来店する大型店舗がショッピング先になっているようです。
 このように考えると、京都のような厳しい建築規制を続けてゆくと、短冊形のビルが林立している商店街が寂れてしまって、大規模テナントを中心とした広いテナントが誘致できる地域に商圏の中心が移動することもあるかも知れないなと思います。そうならないように、将来を見越したメリハリの効いた都市計画の再構築が求められているように思います。