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弁護士法人 白浜法律事務所

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白浜の思いつき
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2008/10/16

やはり一般市民が被害者となりつつある景観政策

京都市の景観政策が、京都市内の建築に重大な悪影響を与えているという客観的なデータがでてきていることについては、以前にエントリーしたとおりですが、建築コストの増大と建物が完成するまでにかかる時間がやたらに長くなっていることが、市民に経済的な打撃を与えているということが実感されるようになってきているようです。本日のアサヒ新聞の夕刊では、「京都市「新景観政策」に不動産・建設業界から悲鳴」という題の記事が掲載されています。
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK200810160058.html
この記事には、なぜ屋根が灰色だとだめなのかと言われている主婦の方の声が載せられています。私は、このような過度の規制は、京都市というお上による表現の自由の侵害ではないかと思います。京都市内にスペイン風の建物を建築しても本来自由だと思いますし、赤煉瓦の屋根の建物なんて、すてきではないかと思います。しかも、このような規制が原因となって建築に時間がかかるということは、金利負担や工事中の代替住宅の賃料等の負担が増大しますし、特殊な建材が必要となれば、建築コストも増大することになりますから、この規制は市民の経済的利益の侵害という側面も持っています。この記事では、規制がなければ300万円でできた補修が1200万円にふくらんで断念された方の例も紹介されています。こうなると、空き家とか、倒壊寸前の建物の増大を招くこととなり、景観も悪くなるどころか、危険な町並みを作り出すことになります。
この記事では、08年の新設住宅着工戸数が前年の約半分となったということも紹介していますが、これは、地元の建設業界が死活的な問題に直面していることを意味しています。
京都市は、倒産に追い込まれた人や資産が大幅に目減りしたような人に対して、きちんとした補償を行うなどして責任をとるべきでしょうが、この記事によると、景観が整って京都の価値が高まれば、経済が活性化するなどと言っているようですから、全く責任を感じていないようです。しかし、そんな景観が整うはずもなく、景観が形成される前に町全体の老朽化が急速に進行することは必至ですし、奇跡的に京都市の言うような整った景観ができたとしても、それは50年以上先のことでしょう。その頃に、今現在生きている京都市民のほとんどはこの世にいないということになるはずです。一体誰のための政策なのでしょうか。京都市はもっと謙虚に被害者の声を聞くべきだと思います。

2008/10/14

空き家率の高い地域が発生していることをどう考えるか

10月13日の京都新聞の22面によると、東山区は、空き家率が高い地域ということのようです。このことは、統計調査から裏付けられてもいるようです。空き家の中には老朽化が進んでいるところも多いとのことであり、「倒れるときのことを考えると、怖くてたまらない。」との声もあるとのことです。
このような空き家の増加について、建替が難しいことが指摘されていて、京都市もそのことを認めているようです。
http://www.city.kyoto.lg.jp/higasiyama/cmsfiles/contents/0000020/20120/akiya.pdf
東山区は、歴史的な建物も多いし、町並みそのものが観光資源となっていることから、都市環境形成のための政策立案には難しい問題があることは間違いないのですが、私は、このような事態が生じている原因は、この町並みそのものに遠因があるように思います。つまり、隣地境界ぎりぎりに建築された木造家屋がうなぎの寝床のような細長い敷地に建築されているという現状です。私は、火災の際の類焼の危険性の高い木造家屋を隣地ぎりぎりに建築するということは、本来許されるべきではないと思っています。阪神大震災のような地震に伴う火災の発生などの場合には、大きな被害が発生することが予想されるからです。加えて、東山区の場合、路地を通じないと建物にたどり着けないところも多いわけですが、このような建物は、現状の建築基準法では、間口制限などにひっかかって再建築ができない場合がほとんどということになりますし、狭い敷地で隣地から距離をとるとなると、細長くて住居としては使いにくい建物しか建たないということもあって、空き家が増える現象を生じさせているのではないかと思うのです。
逆転の発想ですが、私は、このような状況の打破には、細長い敷地をいくつかまとめて広い敷地とした場合には、建築制限を一部緩和することにして、建替を促進するようにした方がいいのではないかと思います。これは、京都市の新景観政策に反対する運動の中で出会った人の言葉から得た発想です。すなわち、「土地も高くなってきたら、固定資産税も高くなって、土地を売ってでていかないかんようになるけど、私ら、この町が好きなんやから、みんなで住めるように、土地をまとめて共同してマンション建てるようにしたんや。」という言葉です。都市が都市として発展していく中で、高層化が進行していくということは、どんな都市でもみられることです。そんな中で、その都市に住み続けるとすれば、土地を互いに提供してマンションを建築するということは、住民としての一つの知恵です。実際、祇園祭の担い手として、マンション住民は重要な役割を果たすようになってきているなど、京都の都市としての発展は、マンションを抜きにしては考えることができませんし、古くからの住民と新しい住民との交流の中で新たな京都が作られつつあるのです。
なお、この方は、「大文字のときは周りの人をお呼びしたりしてますんや。」ということも言われていました。私自身も、前の事務所の大家さんのビルでの屋上パーティーに招かれたりしていますし、他にも同様のことをやっている人を知っていますから、高い建物を建てた人が周囲を気遣うというのは、京都人の中にはよくみられることだと思います。そんな地道なことから、古い町並みと新しい建物との調和が作り出されていっているのが京都なのです。京都市という自治体が上から規制だけを押しつける手法は余りにも乱暴ですし、その政策が、上記のような空き家の増加という現象を食い止めることにはつながっていないことは、私には皮肉なように感じます。
しつこいようですが、建築規制を強化すれば良好な景観や都市環境が形成されるというのは、偏った考えであると私は思います。建物の新陳代謝も促す政策を住民の総意で作り出す必要があるのです。

2008/10/10

高さ規制による圧迫感のある町並の形成の事例

景観保護=高さ規制という考えは、偏っているというのが、私の持論です。
私は、京都市のいわゆる新景観政策に対するパブコメの中で、以下の指摘をさせていただきました。
「容積率が変化しないことをもって、規制がそれほどのものではないかのごとく、京都市は主張しているようであるが、高さが規制される以上、地下の利用ぐらいしか考えられないところ、採光の関係で、建築できる地下空間には建築基準法上の限界がある上、そもそも地下は居住空間としてはあまり好ましいものではないし、コストの点から考えても建築者に著しい負担を強いることとなるから、地下空間の利用が大きく増えることなどあり得ない。結果的に、高さ規制に応じた中低層の住宅しか建築できず、容積率いっぱいの建物は事実上建築できなくなることは明らかである。
 そして、都市部への人口集中の需要が現状のままで土地価格も高くはならないとすると、都市部における中低層のマンションの需要は高まるため、低層建物が建っている地域で広い土地を確保して、中低層マンションを建築する動きが強まり、結果的に、現存している京町家を含めて低層建物がほとんどなくなり、空間の余裕が失われ、居住空間としては環境が低下する危険性が高い。」
以上の指摘は、いわば予言です。つまり、高さが規制される結果、横に目一杯の建物が建築されることを誘導することになるから、結果的に、路上にいる人の目線からみると、空間の余裕がないと感じてしまうということになってくるわけです。
この点、下記の読売新聞の記事によれば、西宮市では、高さ規制の結果、横長マンションが増えて、圧迫感があるなどの不満の声がでてきて、横長マンションも規制するということになりつつあるようです。阪神大震災の結果、新しい建物が沢山建築されたということがもたらした変化なのですが、京都市にも次第に同様な傾向が生じてくる可能性があるということが実証されたように思います。
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20081009-OYO1T00228.htm
上記の記事によると、規制だけが行われそうな雰囲気ですが、私は、西宮市が単なる規制強化だけに終わらずに、好ましい景観形成が誘導できるようなメリハリのある規制を考えられることに期待しています。規制強化だけだと、その規制の範囲内でどうするかということだけに関心が集中してしまいますから、好ましい景観の誘導にはつながりませんし、不動産の資産価値も下がって、地元の建築関係者にも大きな打撃を与えるなど、市民生活にも影響がでてしまいます。京都市のような乱暴な手法は採用されない方がよろしいかと思います。

2008/10/09

ロースクールを淘汰すればそれでいいのでしょうか

ロースクールを淘汰する必要性について、新聞各社で社説がでています。
読売新聞の社説では、ローの乱立解消は避けて通れないとの標題で、最後は、3000人は堅持する必要があるとして、「合格者が増えないままでは、有能な人材が法曹界に進むのを敬遠するようになる。そうなれば、学生の質の維持は一層、困難になる。」としています。しかし、今の新司法試験の最大の問題は、合格したからといって就職ができるとは限らない状態にあることをあえて無視しているように思います。司法試験を受けるということは、仕事として法曹の道を歩むという進路選択をするわけですから、合格しても職がないような資格を得るだけでは、学生は進路選択として司法試験は受験しないと思います。合格さえさせればいいのだということであれば、一部のロースクールの経営者の味方をしているだけで、極めて無責任だと思います。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20081005-OYT1T00668.htm
これに対し、日経新聞は、そこまで意図的な無視はしていないようですが、「法曹増員のペースダウンを主張する日本弁護士連合会は、その理由のひとつに新司法試験合格者の「質」を挙げている。しかし法科大学院が本来の姿を取り戻せば優秀な人材が集まりやすくなり「質」と「量」の両立も可能になるだろう。」として、これも、ロースクールの乱立さえなくなれば未来があるかのごとき主張になっています。しかし、最大の問題は、需給のアンバランスです。合格者数に見合うだけの社会的需要がついてきていない現状を前提としない限り、合格したけれども職があるとは限らないという状態が続くことになります。そうなると、有能な人材が、法曹界に参入しようとしなくなってしまいます。医学界では、医師国家試験に合格したけれども医師の職にはありつけないという事態は生じていないと思いますが、弁護士は単なる資格試験でいいから就職がなくても構わないということでいいのでしょうか。私は、経験上、弁護士はオンザジョブトレーニングが大事で、先輩の指導を受けながら仕事をしないと、利用者に迷惑をかけることが多くなると思っています。それが不要かのごとき机上の政策論で法曹人口論を語ることはやめていただきたいと思います。
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20081004AS1
K0300603102008.html